自主・民主を求めて

結城 瑛子(ゆうき・てるこ)

世相が騒然としていた1967年3月、私は最後の短大・大専攻科生として卒業し、4月に聖路加病院に入職しました。

入職後、新生児室で業務に励んでいた頃、看護婦研修制度等の問題が表面化し、医療労聖路加分会ができ、病院側も組合を結成し、私は総婦長からその委員になるよう言われて参加しました。が、前者の要求には尤もと思うことが多々あり、考えさせられたことが思い出されます。

翌年6月、交換看護婦として渡米し、病院研修では、言葉は別として、実務では聖路加とほぼ同じで、それ程困りませんでした。が、教育水準において、日本の後れを痛感し、勉強のために再渡米しようと心に強く思いました。それには大卒の資格が必要で、母校に編入について問い合わせたところ、「若手の教員に学士を取らせる制度が始まったばかりである。助手としてきて欲しい」との返答でした。休職での渡米でしたので断り、1年後、小児病棟副主任として復職し、1970年4月、大学に小児看護学助手として移りました。そして翌春、編入が許され、業務の間に単位を取得していきました。

当時、学生たちは全寮制廃止や寮生による自主的・民主的運営を訴えていました。既に1968年4月から部屋数の不足等の理由で「4年生のみ通学可」となっていました。学生自治会は門限等厳しく管理されている状況を改善すべく、1969年12月に「寮問題委員会」を発足させ、大学側と交渉を続けていました。が、なかなか合意にいたらず、翌年12月に学長発議により、大学と学生間の「寄宿舎委員会」が発足し、話し合いが続けられていました。入職早々の私に、「若手教員を代表して参加するように」と言われました。委員会では、学生達がただ単に「自分たちに自由を」と主張しているのではなく、「物事の自治やあるべき姿、自主性、患者さんの権利の養護」等について真剣に考えていることがよくわかり、感心し、同感したものでした。前田アヤ先生から「あなたは教員なのに学生の側に立ちすぎる」と注意を受けたこともありました。

双方の合意がない段階で、一方的に大学側が保証人宛に「学則40条を『原則として寄宿舎に入舎、通学も可』と改正する」旨の文を送付したことで、学生側から「全面撤回要求」が出されました。12月22日には「学則改正に関する説明会」が開かれ、学生達が理路整然と意見を述べていた一方で、前に座られた先生方の困惑したお顔が、今でも鮮やかに思い出されます。

その後も大学と学生間の話し合いが続き、翌年4月から寮は学生側の管理となり、1973年には寮廃止が決定し、1973年には全面廃止となりました。

およそ50年前の話ですが、当時学生だったみなさん、覚えていらっしゃいますか?

Profile

Class of 1966(聖路加短期大学)。1967年専攻科卒業、1973年聖路加看護大学卒業。75歳。

専攻科
1958~1967年、聖路加短期大学看護学科(3年制)卒業生に対し、保健婦・助産婦・看護管理等を教授するために設けられた1年制の進学課程(のちに他短期大学看護学科卒も受け入れた)。

看護婦研修制度
1956年に始まった看護婦を研修生として2年間受け入れる卒後教育制度。全国から優秀な幹部候補生が集まったが、低賃金等に対する反対運動が起こり、1967年研修生を最後に廃止となった。

医療労聖路加分会
日本医療労働組合協議会という全国的な医療従事者向け労働組合組織が、聖路加病院内の職員を対象として組織した分会。

前田アヤ
前田アヤ(1908~2000)。1930年、聖路加女子専門学校卒。大学設置時、短期大学主事。大学開設と同時に衛生看護学科長(主事・学科長は現在の学部長に当たる)。

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