1945年の卒業生
田中 和子(たなか・かずこ)
聖路加女子専門学校は、私が入学する前年の1941年に興健女子専門学校と名前が変わりました。17歳から21歳の女学校を卒業した女子が学ぶ全寮制の、看護婦・保健婦と中学高校の生理衛生の先生の資格がとれる4年制の学校(※1)です。私たちの学年は33名が入学。全国各地から生徒が集まっていました。5階建ての建物で、1階が学校、その上に寮があり、1年生は5階、2年生は4階という具合に学年が上がるごとに下の階に移るのです。2階は、婦長さんや舎監の先生が住んでいて、地下には洗濯場と体操場がありました。
私たちは、病院での実習をしながら勉強をしておりました。当時の日本の看護婦さんたちは、女中さんと大差なく、病院の掃除や洗濯もしていましたが、聖路加病院はアメリカ式でしたので、ユニフォームは、汚れたら自分の棚に入れておくとクリーニング専門の人が洗濯して棚に戻してありましたし、掃除も専門の人がしていて、看護婦は、看護婦の仕事以外はしなくてよかったのです。看護婦になる勉強だけでなく、生理衛生などの科目もあったので、他の学校の看護婦とは違うとみんなプライドを持っていました。
戦争が激しくなり、看護婦が不足するだろうということで、1941年に看護婦のみを養成する2年制の別科ができました。どちらの科も初めのユニフォームは、予科服のブルーの上下でした。
寮は、2人部屋で6畳くらいの部屋に、窓際にベッドがおいてありました。畳で布団の生活が普通の時代でしたので、特に田舎から来た人は驚いていました。部屋ではスリッパを履いていましたが、部屋を出ると土足(靴を履いたままの生活)でした。
起床するとすぐにベッドメイクをし、5階の広間(娯楽室)で舎監の先生が礼拝をなさり、9時までに病院1階で食事をして学校に行きます。夕方はチャペルで礼拝がありました(※2)が、病院での実習があるので参加できない日もありました。
寮の舎監は、熱心なクリスチャンの寺内先生でした。着物の上に被布を着ていらっしゃいました。とても厳しい先生で、毎日みんなが登校した後、各部屋の見回りをされて、きちんとベッドメイクがされているか、整理整頓がされているかをチェックなさり、目をつけられると大変なことになるのでした。
戦時中でしたが、聖路加では、カルテは英語でチャート、その他にもチャペル、チャリティルーム(貧しい方が無料で入院できる部屋)等の言葉が使われていました。先輩たちの時は、先生がみんなアメリカ人だったので英語での授業でしたが、私たちが女学校の時は、英語は敵国語ということになっていて、女学校で英語を習ったことはありませんでした。そのため上級生はチャートに英語で記入、私たちは日本語で記入するしかなく、先輩からすると英語も分からない困った人たちだったのです。上下関係はとても厳しく、例えばエレベーターに先輩がお乗りになるまで下級生はエレベーターの外でおじぎをして待って、先輩がお乗りになってから乗り込み「何階ですか?」と先輩に聞いてボタンを押すのが当たり前でした。
最初の実習は、ベッドメイクでした。シーツをしわひとつなく角をきちっと三角に折って入れ込みます。1年生の12月に戴帽式があり、やっと上級生と同じユニフォームとのりのついたキャップとなりました。当時私は、とても太っていて60キロ以上ありました。そのせいでユニフォームにしわがよってしまって一生懸命伸ばしていました。3学期から、毎朝8時から自分が担当している患者さんのベッドのシーツを整える仕事をしました。寝ている患者さんを端に寄せてシーツに丁寧にブラシをかけ、しわを伸ばし、終わると反対側によせて、またブラシをかけシーツのしわを伸ばします。シーツ交換の時も、患者さんが動けない場合は寝たまま交換するのでした。その実習の後、9時から授業です。1~2年の時は、別科の学生と一緒に看護婦さんになる勉強をしました。
若い日野原重明先生(30歳くらい)は、看護学生に大人気で、先生はガウン(白衣)のボタンを留めずに、いつもガウンをヒラヒラさせて廊下を歩いていらっしゃいました。空襲がなかった1年生の時は、学芸会。2年生の時は運動会もありました。
日曜日がお休みでしたので、土曜日は家に外泊することができました。家に帰らない日曜日は、銀座に出かけて食料不足で営業時間が短くなったお店に1時間以上並んでおうどんを食べたり、それぞれの田舎から時々届く食べ物や家に外泊した方々が持って帰ってくるお土産を夜みんなで食べたりと、大変な時代だったのにも関わらず、若い女の子たちは、それなりに楽しく暮らしていました。
3年生になった昭和19年(1944年)11月から東京でも空襲が始まりました。聖路加は、アメリカの聖公会が建てた病院です。アメリカ軍の飛行機から「聖路加は焼かない」と書かれたビラがまかれ聖路加は爆撃されないとみんな信じていました。
私たちは、いつでも出動できるように夜はシャツを着て寝て空襲警報が出るとすぐに黒い防空服を着て防空頭巾をかぶり、靴をはいて真っ暗な中それぞれの持ち場に向かいました。私は3階の内科が担当でした。空襲の様子で患者さんを(安全な)地下室に移すかが決まるのです。冬は地下室が寒くて入院患者さんを入れると風邪をひいて悪化してしまうのですぐには移しません。
空襲の後は、医療派遣があります。皆が日野原先生と同じ車に乗りたがり、上級生が優先の順番待ちでした。田舎(都下)で空襲があると軍からトラックがきて医療派遣に行くのです。車の中では楽しくおしゃべりをして、現場に着くと空襲でとても悲惨な状態の人々の救護をするのです。人間の慣れとは恐ろしいもので、救護が終わるとお礼にその地域からおにぎりが出たのです。いつもお腹が空いていた私たちはおにぎりを楽しみにしていました。オキシフルで簡単に拭くだけでろくに手も洗わずにおにぎりを食べました。梅干しかゴマが多かったのですが、海苔がついていたらご馳走でした。終わって病院に帰るトラックの中で「あなたいくつ食べた?私はいくつ。」などと楽しく話していました。きっと今ならあの悲惨な救護の後は、食べることなどできないでしょう。
空襲は夜中の1時頃から始まるのでちゃんと寝られない日々が続きましたが、皆次の日は通常の業務をこなしていました。
昭和20年(1945年)3月9日の夜から東京にひどい空襲がありました。2時間の空襲で下町は火の海になりました。怪我人の人数がとても多いのでチャペルや廊下にもゴザをひき、できるだけの怪我人を受け入れました。腕や手首がぶら下がった人や大火傷を負った人がたくさん収容されました。今なら見るのも嫌だと思う状態の患者さんの手当てをしていました。当時は物資が不足しており、薬といえばオキシフルとチンク油しかなく、痛がる患者さんにはオキシフルで消毒をしてチンク油を塗り包帯を巻くだけです。次の日、包帯を替える時には、肌に体液で包帯が張り付いているので剥がす時にまた痛がる。その繰り返しです。
お腹が破れて腸が飛び出している患者さんが運ばれてきた時は、日野原先生が「腸は傷ついていないから大丈夫だとおっしゃって、腸を消毒してお腹に戻すのを手伝いました。その患者さんは、その後お元気になられました。亡くなった人は、どんどん係の人が運び出す。今では、考えられない状態でしたが、私たちは淡々と仕事をこなしておりました。
8月15日に終戦となりました。聖路加はすぐにGHQに接収されることになり、爆撃されなかったのはこういうことだったんだと実感しました。私たちも寮を出ることになり、焼け残った月島のお店の2階に移動しました。田舎に帰ってしまった生徒がたくさんいて、私たちの4年生は5人になっていました。9月に卒業となり、院長室で卒業証書をいただきました(※3)。卒業と同時に、保健婦・看護婦・中高の保健衛生の先生の資格をいただきました。
毎年、聖路加の同窓会が5月に行われます。2016年は先輩が1人、同級生は2人参加しました。
Class of 1945(興健女子専門学校)、旧姓は小浜
※1 本来は4年制であったが、1941年10月に大学等の修業年限短縮の省令により、1941年度卒業生は3ヶ月短縮されて1941年12月に、1942年度卒業生は6カ月短縮されて1942年9月に卒業。
※2 1942年度の学事暦にはキリスト教関連の行事は一切記載されてなく、日常の礼拝も表向きは禁止されていた。
※3 卒業証書は、当時の橋本寛敏校長より東京在住の3名(小浜和子、大野道、小室規矩子)に授与された。地方出身者は既に帰郷しており、証書は後日郵送された。
【後日談】
2019年3月、卒業から74年を経て、田中和子さんはクラスメイトの藤堂道(旧姓 大野)さんと共に、本学卒業式に出席されました。1945年の卒業時は証書の手渡しのみでしたので、やっと卒業式が行われたことになります。その様子は、新聞でも取り上げられました。
→ [聖路加国際大学] 2018年度卒業式・修了式を行いました
→ 2019年3月9日 産経新聞
https://www.sankei.com/nyushi/news/190309/nys1903090001-n1.html