「アイ・アム・ノット・ア・レコード」
岩間 節子(いわま・せつこ)
1950年4月入学、1953年3月卒業、定員20名で日本赤十字専門学校との合同教育時代の最後の卒業生です。入学試験には回虫検査のための便を持参しなければならず、緊張症の私はその準備ができず、同行していた友人の便を分けてもらい持参しました。入学後の再検査の結果、私には回虫がいることがわかり駆虫剤のひまし油を飲まされました。その苦さは今でも忘れません。
1年生の最初に身に付けていただいたことのひとつに「集中力」があります。基礎看護の吉田時子(※)先生です。先生は講義・デモンストレーションの後、時々その日の講義内容について簡単な不意テストを行うことがありました。先生が学生の前に現れる時、先生持参のテキストにテスト用の紙が挟んでないか、じっと注視しました。講義の後の、先生のデモンストレーションは1回だけですが、学生の質問はほとんどありません。ある日、誰がどんな質問をしたのかまったく覚えていませんが、吉田先生の「アイ・アム・ノット・ア・レコード」の言葉は今でも決して忘れません。私たちは先生の言動を聞き漏らさず、見落としなく集中して講義を受けました。戦後物資はなく、特にテキストや資料などもほとんどなく、講義の先生のひと言ひと言をその場で理解しなければならなかったからです。
当時の臨床実習は学生が病院の従事者数に数えられていた時代で、私たちのローテーションはグループではなく、すべて個人でした。したがって、あてにできるクラスメートはいません。自分の行動予定がわかるのは自分の名前が掲示板に張り出されたメモだけです。夜間実習もあり、これは内科病棟以外は日赤の卒業生と組んで2人夜勤になりますが、内科では一人夜勤もしました。当時私はよく急性中耳炎になり、なぜかそれも、夜間実習の予定表が掲示されると発病します。「小沢さん、あなたは夜勤が嫌いですか」と吉田先生に質問され、「はい」と答えたところ、慢性中耳炎を心配してか、私の夜間実習は中止されました。卒業後わかったことですが、クラスメートの中でみんなの半分しか夜間実習は受けておらず、それでも産室実習での正常分娩の見学実習は、卒業式が終わり保健婦学校の入学直前まで補修実習を受けました。
Class of 1953。(聖路加女子専門学校)。旧姓は小沢。
吉田時子(1922~2020)
1943年、聖路加(興健)女子専門学校卒業。本学教授等を務め、1992年、聖隷クリストファー看護大学学長。