高橋シュン先生の技
川名典子(かわな・のりこ)
私の心には、私が看護学生1年目で実習中に垣間見た高橋シュン先生の実践が、聖路加の看護の象徴として刻まれている。
それは旧病院3階351号室という重症患者用の質素な個室でのことだった。そこに救急搬送されてきた患者さんは50歳代くらいの男性。肝不全の末期だったのか、強度の黄疸で皮膚は黄土色に近く、意識障害があり会話のできる状態ではなかった。倦怠感か、黄疸による掻痒感か、腹部に激痛があったのか、あるいは無意識の中に心配や不安が高まったのか、理由はわからないが、手足をばたつかせて、あーあー、おーおー、といううなり声を上げていた。古い鉄製ベッド上でサイドレールから身を乗り出さんばかりにのた打ち回っていたのである。1年生の私には何が起きているのかまったくわからず、まして打つ手など見当もつかずに、ただ茫然と眺めるしかなかった。
きびきびと働く白衣の看護師さんたちが「肝性昏睡」とか言っている声がなんとなく耳に入ってきたが、彼女たちもなすすべなく、転落予防の抑制が必要か、などと話していたようだった。
そこへ高橋シュン先生が突然さっと入ってこられて、患者さんに向かって優しい口調でこう言ったのである。「大丈夫ですよー、大丈夫ですよー」そして、寝衣の前がはだけ丸出しになってばたついていた足を何度もなでた。
驚いたことに、次の瞬間、患者さんが足のバタバタを止め、体中の緊張を解いて、静かになったのである。それはまるで魔法のようだった。
患者さんは落ち着いた後も意思疎通はできなかった。私の実習は終わり、その患者さんのその後については何も知らない。ただ、高橋先生の声かけとタッチで患者さんがすっと落ち着いたことだけが記憶に刻まれた。
あれから50年近くたった現在、医療は格段の進歩を遂げ、看護学も発展した。しかし、あの時の高橋シュン先生の行為が理論的に解明されたのだろうか。その他の魔法のような現象はまだ個人的な記憶の中だけに留まってはいないだろうか。
看護には、人(患者)をエンパワーする力、レジリエンスヘの影響力があり、人に寄り添うという患者―看護師関係が持つ根源的な力が備わっている。聖路加の看護にはこの力が継承されてきたのではないだろうか。これを魔法ではなく看護の力として私たちがもっと認識し、誇り、実践すること、そしてその現象を解明すること。
―聖路加の看護はそういう看護の原点に立ち返る牙城であってほしいものです。
Class of 1976。杏林大学大学院客員教授。66歳。