阪神・淡路大震災の被災地で

中村綾子(なかむら・あやこ)

1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きました。新聞やニュースが伝える被害の大きさに言葉を失うと共に、私たちにも何かできることはないかという思いが募りました。3年生だった私たちclass of 1996の有志は、春休みに入った2月下旬頃から4~5人1チームで4班に分かれ、被害の大きかった神戸市長田区にある神戸朝日病院に1週間ずつボランティアに行くことになりました。ボランティア先は、精神看護学の中山洋子先生が見つけて下さったと聞きました。また、萱間真美先生は一足先に赴き、調整や安全確認をしてくださいました。さらに、出発前には、多くの先生方からのカンパもいただきました。


私は第1班の一員として5人のクラスメイトと現地に向かいました。震災から1か月以上が過ぎていましたが、電車の不通区間があり、途中から徒歩で向かったと記憶しています。私たちは、寝袋を使いリハビリ室で寝泊まりをしました。食事は支援物資など病院職員向けのものをいただきました。いくつかの病棟に分かれ、検温、清拭などを担い、入院患者の話を聞き(※アナムネ聴取)、少しでも役に立ちたい一心で毎日懸命に取り組みました。看護師の方々は口々に、「聖路加の学生さんが来てくれて助かるわ。やっと休みが取れる。」と言ってくださいました。また震災直後には、懐中電灯の明かりの下で創傷処置にあたったこと、戸板に乗せられ運ばれてきた患者さんが何人もいたこと、病院で大勢の被災者の看護にあたるうち、自宅が火に包まれてしまったことなど、語ってくださいました。1週間後、第2班と引き継ぎを終え、私のボランティア活動は終わりました。涙ながらに手を握って下さった患者さんの顔が今でもまぶたに焼き付いています。


これが私たちの災害ボランティアでした。今推奨される自己完結型のボランティア活動とは全く異なるものでした。20年以上の時が経ち、聖路加の先生方や先方の看護師の方々から当時自分たちが想像していた以上の支援や配慮をいただいていたであろうことに気づかされます。先生方は「無理」と言わずにできる方法を探ってくださった。そして私たちも決して上手くはなかったけれどできる方法を模索しました。そこに聖路加らしさがあると私は思うと同時に、私たちがしてもらったように学生さんや若い看護師達の背中を押していくことが、当時の私たちに関わってくださった方々への恩返しであり、聖路加の卒業生としての責任であると思うのです。

Profile

Class of 1996。団体職員。昭和大学病院/昭和大学保険医療学部勤務。2007~2013年、聖路加看護大学助教(看護管理学)。

(※)問診をとること。

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