私と看護
芳賀純(はが・じゅん)
明治生まれの両親の下、6人兄弟姉妹であった暮らしの中で生育された私。東北出身の曽祖父母も商家。父は分家(本家肴屋)独立独歩の苦学生、国立大学を出て戦前から東北4県にて高等女子教育職に就き一時、渡満(斉斉哈爾(チチハル)・ハルピン)、ふるさと鶴岡市城下町(庄内藩旧鷹匠町)に戻り、戦後通じて一時行政職にも就き生物教科担当を貫いた教諭の生涯(亡60歳)であった。
女学校卒早々に見合結婚生活に入った母(亡83歳)とは、よく似ていると言われていた娘の私。老いても乙女心が失せていない。そして性格までピッタリで上辺の評判は余り気にかけない娘。
若さの秘訣は離れて暮す3人の孫(息子と娘たち)との会話。それにプラスするに・・・。生来の自分本位のわがままを加減しつつ、温和な夫は糠に釘へと転じる器用さに長けて、常態化し、生活基盤は昇華の歳月。
先に旧姓時の私の家族と老境入りの今の断片・家族を紹介してみたのであった。更に続けるに家族の胸キュン!からお堅い「看護」への話へと移行してみたい。
光陰矢の如し卒後53年目。顧みるに今はもう70代後半。余生の日常は未だに「看護」と向き合い思考を巡らす時々があり、何とも不思議な気がする。職歴は本採用期間5年余りと短い。あえていうに「看護概論」なる看護観を含むその定義をも含む「社会科学の枠内にある」。並びに、その難題な「学問的体系化」に挑み紡いでいる。その内容を自費出版予定の自分史「わたしの軌跡」に記してみたのであった。社会性という枠に自らの人生を展じ、看護領域に思いを巡らしてみたのである。それも家庭環境並びに世間界隈身近に及ぶ身内に看護職に就いた女性がいなかった(医療職は別枠と考慮)。高卒後の進路(進学選択)は、父の教諭職場の同僚地縁その夫人が関東圏から地元へ嫁していた偶然の地縁からの家族交流から。私の両親が、その夫人のお人柄に魅了され、好感を抱いていたのであった。夫人は職業が看護職であって、新鮮な影響を受けた起因。さらに言うと学究的な物の見方や言動面での自由主義、アカデミックな教育機関としてのリベラルアーツ他、教科不足を卒後に補う必要性の重さに気付いたことも大きかった。主婦業の合間に生涯学習としての覚悟の上で、読書(参考文献)量重なるばかりの昨今でもある。
終生一体となった看護と向き合いつつ、家族みなで「バンザイ!」と乾杯!を捧げよう!
寮の2人部屋でルームメイトと右が筆者(1964年4月)Class of 1966(聖路加短期大学)