戦火が見舞う
寄宿生活
武藤 怜子(むとう・れいこ)
私が聖路加女子専門学校(※)(戦時は興健女子専門学校)へ入学したのは1944年4月でした。当時はかなり深刻な戦時で、女学校卒業と同時に学校の延長として軍需工場へ行かなければなりませんでしたが、一部医療関係の進学は許されていましたので、私は父の強い勧めで、聖路加を受験しました。合格した私たちは前例のない80名の新入生でした。全寮制でしたので、部屋が足りず、4年生は六本木の聖ルカハウス(※)が寄宿舎でした。
現在の大学とは違うので想像ができないと思いますが、病院の東側の建物が学校で、5階建てでした。5階と4階が新入生の宿舎、3階が3年生と2年生の宿舎、1階と2階の一部が教室でした。真ん中に廊下、東と西側に部屋が並び、今ほど高層ビルがなかったので、東側の部屋からは、隅田川や東京湾、西側からは京橋の町、服部の時計台(※)も見えました。今は暗渠(あんきょ)になり公園になっていますが、すぐ側に川も流れていました。
寄宿舎の生活はとても厳しく二人ずつの部屋に、ベッド、机、クローゼットがあり、起床後は身仕度を整え、ベッドメーキングをして1日が始まるのですが、時折舎監の先生の点検があり、だらしないと教務に呼び出されお叱りを受けました。また洗面所、トイレ、すべて洋式でしたので、カルチャーショックを受けたのは私だけではありませんでした。
朝4年生が六本木の宿舎から通って来るのを待って朝礼です。今はまったく覚えていませんが、戦時中の学生の心得の誓いの言葉を全員で斉唱しました。それから体力増強とかで、学校のぐるり(周囲)を駆足で3周です。当時は栄養も満足でなかったので体力がなく、とても苦しかったのです。
入学した年の暮れ頃より空襲が始まり、夜中のサイレンで何度も起こされ、そのうちに服は着たまま、靴は履いたままベッドに足を垂らして寝るようになりました。
忘れられないのは1945年3月10日の東京大空襲の夜です。おびただしい火傷の人が運ばれ、病院の廊下、チャペルの前のロビー、学校の地下の体操教室など、足の踏み場もないほどでした。私たちの学生も総出で、一晩中手当てに奔走しました。その時の厳しい様子は、74年経った今も忘れられません。
終戦の放送は大教室で、全校生徒で聞きました。全身の力が抜ける思いと、ほっとした気持ちでした。
戦時中の救護訓練(1943年頃)Class of 1947(興健女子専門学校)。
聖路加女子専門学校
聖路加国際病院附属高等看護婦学校は1927年、本科3年さらに公衆衛生看護等を選択する研究科1年を併せ持つ4年課程の専門学校となる。看護婦養成所としては、わが国唯一の最高学位の教育機関であった。
聖ルカハウス(青山ハウス)
1944~1945年、研究科生の寮として使用。戦後は聖公会等の使用に供していた。1984年に売却し建物は現存しない。
服部の時計台
現・銀座和光の時計台。1932年関東大震災後に再建された本館に備えられたカリヨン時計台。