「看護婦」が威張る病院

遠藤昌夫(えんどう・まさお)

医学部を卒業した1965年に、インターンとして聖路加国際病院に入局した。私の父は小児科医で、同級生の河辺秀雄(※1)先生が内科部長を務めておられた。父は「お前、聖路加と言えば看護婦が威張っている病院だぞ。病院正面の一段と高い席に総婦長が座って辺りを牌視(へいげい)している。自分も河辺と一緒に受験して、病院からは入職を請われたが、そんな看護婦が威張っている病院はまっびらだと断った」と言っていた。

インターン生活は新鮮で刺激的だった。当時のナースステーションには椅子がなかった。椅子は婦長用に一脚あるだけで、申し送りは立ったまま行われていた。初めて病棟に配属されたインターンのひとり、岩槻舜三郎が、挨拶代わりにその椅子を引いて、婦長をひっくり返すというやんちゃ集団であったが、婦長たちには可愛がられた。

10時と3時に、婦長が「ティータイム!」と叫ぶと、皆仕事の手を止めて給湯室に集まり、立ったままコーヒーを飲んだ。当時のインターンの食事は粗末で、"猫跨ぎ"(猫も跨いで通る)と呼ばれていた。気の毒がった婦長は、外国人が退院する当日の昼食をとっておき、個室に呼んで食べさせてくれた。

当時の聖路加は "Patient First" の思想が徹底しており、日野原重明先生には患者への接し方の基本を教わった。各部屋のドアノブには閉めた時に音がしないように布製の帯が巻かれており、ハウスキーパーと呼ばれる婦長が管理していた。ある晩、礼拝堂と対峙する大部屋(G棟)(※2)近くの当直室に寝ていた自分にお呼びがかかった。寝ぼけ眼で出てきた自分は、何気なく後ろ手でドアを閉めた。ドアは小さな音を立てて閉まった。そこに通りかかった夜勤の婦長が言った。「ドクター、今何やったんですか?」、自分「何って、当直で呼ばれたから起きてきたんだけど」、婦長「ここはG棟で50人の患者が寝ています。ドクターともあろう方が、患者の眠りを妨げるような音を立てるとは言語道断です!」。このひと言で、後の自分のNurse-Doctor Relationshipが決定づけられた。

外科医となった自分は、ナースがドクターの小間使いであった当時の医療現場においてNurse Firstの医療チームを組むことに努力した。ナースがドクターと対等の関係を保っためには、ナースにもっと実力をつけて欲しかったので、積極的に各地の看護学校、看護大学、日本看護協会へ講義に出かけた。また、院長としては、さいたま市立病院の看護近代化を目指して、聖路加看護大学卒業生で、聖路加国際病院に勤務していた渡邊千登世君を看護部長·副院長として招聘した。

これらはすべて、先のG棟における経験が元になっている。聖路加のNursing Spiritのますますの充実と向上を祈ります。

Profile

医師。1965年慶應義塾大学医学部卒業後、聖路加国際病院にてインターン。慶應義塾大学外科学教室助教授を経て、さいたま市立病院院長、さいたま市立病院名誉院長。

※1 河辺秀雄(1910~1985)
慶應義塾大学医学部卒業後、聖路加国際病院勤務。1949年内科医長、院長補佐など。

※2 G棟
General:ジェネラル(大部屋)があった棟。病院本館(現在の旧館)中央突出部の3階から6階までが各科G棟に当てられていた。

【ちょこっと解説!】

「『看護婦』が威張る病院」

聖路加の創立者トイスラー博士は、イエス様がなさったように病で苦しんでいる人と家族を救いたい、特に、遅れた医療環境にあった日本の患者さんのために最先端の医療を実現したいとの強い願いで聖路加国際病院および高等看護婦学校を作りました。キリスト教の愛が活動の根幹にあります。特徴のひとつがアメリカ式の医療で、医師と看護師は同格なことです。日本の看護のレベルを上げることが緊急に必要と判断して医師教育よりも看護の指導者教育を優先しました。高等女学校卒業を受験資格としてアメリカの最高の看護教育カリキュラムに倣った看護学校(聖路加国際病院附属高等看護婦学校)が1920年に設置され、現在の聖路加国際大学へと続いています。

執筆:山口喜義氏 元聖路加看護大学事務局長


1932年の授業風景 1932年の授業風景 旧館南口玄関右の礎石「神の栄光と人類奉仕のために」 聖路加看護大学旧校舎
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